夏の匂い/エフ
ぼく、消えちゃうから、お姉ちゃん、言ったらだめだよ。
弟が言って目をつぶる。大きく息を吸って、止める。しばらくすると顔を真っ赤にさせて、はぁ、と大きく息を吐く。もう一度息を吸って、止める。しばらくして、額にぶわっと汗をかいて、はぁ、と大きく息を吐く。
「どうしよう、長く消えていられない」
弟が大まじめな顔で言うので、思わず笑い出しそうになった。目をつぶって息を止めている間は透明になれるのだと弟は信じている。わたしはそんなことをしたところで透明になんてなれないのだと、ずいぶん前に気づいてしまった。
「消えてたって、無駄よ」
わたしが言うと、弟は丸い目をもっと丸くして、どうして、とこちらを見上げる。汗をかいた額は丸く幼い。
「お母さんは、絶対にあんたを見つけるもの」
「じゃあ、お姉ちゃんも一緒に行こう」
弟が無邪気に無責任なことを言う。
「そうしよう、お姉ちゃんも一緒に行こう。新しいお父さんの家は動物を飼えるんだって。お姉ちゃん、うさぎが飼いたいんだもんね。僕も好きだな。きっと良いって言うよ。それにお母さんがもう仕事に行かないんだって。家にいてハンバーグを作るって言ってたよ。グラタンも。きっとお姉ちゃんの好きなナポリタンも作ってくれるね。それから」
わたしを見上げる弟の頬を、思い切り叩いた。弟の小さな体は亀裂の入った薄灰色の壁に頭からぶつかって、畳の床に落ちた。
弟は何が起こったのかわからない、というような顔をしてぼんやりと畳に頬をつけている。ぽっかりと開いた目は、避暑中の小さなトカゲの目に似ている。
部屋の中はわたしが荒く呼吸する音と、外から入り込んだ蝉の鳴き声で満たされる。掌がひりひりと熱かった。
間違えた、と弟が呟く。お姉ちゃんが好きなのはナポリタンじゃなくてミートソースの方だった。弟の左頬がじわじわと赤みを帯びる。
「あんたなんて、消えちゃえば良いのに」
首の後ろを汗が伝った。弟は目を見開き、一瞬の後に顔をくしゃくしゃに歪めて泣き出した。弟の泣き声はわんわんと鳴いていた蝉の声と共鳴して、部屋の中で渦を巻く。耳の内側がびりびりと震えてむず痒い。
「あんたばっかり」
呟いたけれど、弟の泣き声があまりにうるさくて、わたしの耳にすら届かない。部屋の中では蝉の声と弟の泣き声だけがぐるぐると渦巻いている。
わたしもお父さんも、捨てられたのよ一緒くたに。
口を動かしたけれど、わたしの声は音になる前に泣き声に飲み込まれて消えた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で泣く弟の声は、どんどん大きくなっていく。窓の外で鳴き続ける蝉の鳴き声も、どんどん大きくなっていく。大きな耳鳴りがした。弟の声も、蝉の声も、わたしの呟きも、もう何も聞こえない。
弟の涙を吸った畳が西日に照らされて、蒸した夏の匂いをさせる。
弟が言って目をつぶる。大きく息を吸って、止める。しばらくすると顔を真っ赤にさせて、はぁ、と大きく息を吐く。もう一度息を吸って、止める。しばらくして、額にぶわっと汗をかいて、はぁ、と大きく息を吐く。
「どうしよう、長く消えていられない」
弟が大まじめな顔で言うので、思わず笑い出しそうになった。目をつぶって息を止めている間は透明になれるのだと弟は信じている。わたしはそんなことをしたところで透明になんてなれないのだと、ずいぶん前に気づいてしまった。
「消えてたって、無駄よ」
わたしが言うと、弟は丸い目をもっと丸くして、どうして、とこちらを見上げる。汗をかいた額は丸く幼い。
「お母さんは、絶対にあんたを見つけるもの」
「じゃあ、お姉ちゃんも一緒に行こう」
弟が無邪気に無責任なことを言う。
「そうしよう、お姉ちゃんも一緒に行こう。新しいお父さんの家は動物を飼えるんだって。お姉ちゃん、うさぎが飼いたいんだもんね。僕も好きだな。きっと良いって言うよ。それにお母さんがもう仕事に行かないんだって。家にいてハンバーグを作るって言ってたよ。グラタンも。きっとお姉ちゃんの好きなナポリタンも作ってくれるね。それから」
わたしを見上げる弟の頬を、思い切り叩いた。弟の小さな体は亀裂の入った薄灰色の壁に頭からぶつかって、畳の床に落ちた。
弟は何が起こったのかわからない、というような顔をしてぼんやりと畳に頬をつけている。ぽっかりと開いた目は、避暑中の小さなトカゲの目に似ている。
部屋の中はわたしが荒く呼吸する音と、外から入り込んだ蝉の鳴き声で満たされる。掌がひりひりと熱かった。
間違えた、と弟が呟く。お姉ちゃんが好きなのはナポリタンじゃなくてミートソースの方だった。弟の左頬がじわじわと赤みを帯びる。
「あんたなんて、消えちゃえば良いのに」
首の後ろを汗が伝った。弟は目を見開き、一瞬の後に顔をくしゃくしゃに歪めて泣き出した。弟の泣き声はわんわんと鳴いていた蝉の声と共鳴して、部屋の中で渦を巻く。耳の内側がびりびりと震えてむず痒い。
「あんたばっかり」
呟いたけれど、弟の泣き声があまりにうるさくて、わたしの耳にすら届かない。部屋の中では蝉の声と弟の泣き声だけがぐるぐると渦巻いている。
わたしもお父さんも、捨てられたのよ一緒くたに。
口を動かしたけれど、わたしの声は音になる前に泣き声に飲み込まれて消えた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で泣く弟の声は、どんどん大きくなっていく。窓の外で鳴き続ける蝉の鳴き声も、どんどん大きくなっていく。大きな耳鳴りがした。弟の声も、蝉の声も、わたしの呟きも、もう何も聞こえない。
弟の涙を吸った畳が西日に照らされて、蒸した夏の匂いをさせる。

