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秘密の耳/エフ

 お母さんの財布から五百円盗ったんだ。
 弟の吐く湿った息が、わたしの左耳の産毛を揺らす。わたしの左耳には弟のささやきは言葉として聞こえずに、夜の波の音の様に聞こえた。
 聴力をほとんど持たないわたしの左耳は、ささやき声など拾わない。ただ、静かな波の音が聞こえるだけだ。
 弟がささやいていることは、吐息でわかる。弟の吐息は雨の匂いがする。
 目の前の、湿気を吸ってぼんやりとしたふすまを見つめる。弟が黙り込んでしまうと、弟とわたしとでこもった押入の中は呼吸する音で満たされる。弟の、緊張したような不規則な呼吸音が愛おしい。
 しばらくの間二人で黙り込んでいると、少し息苦しくなった。しめきった押入の酸素が薄くなったのか、それとも弟の吐く息の雨が満ちてきたのだろうか。
 少しだけ押入のふすまを開けると、雨音が聞こえた。左耳で聞く波の音に似た、けれどそれよりもずっと激しい雨の音だった。
 押入の隙間から見える窓の外は、まだ夕方だというのに夜中のように暗い。耳を澄ませば、近くを流れる川の音が聞こえるような気がした。一昨日から降り止まない雨のせいで、きっと水かさが増しているだろう。
 押入の中は、狭く暗く湿気ている。体育座りをした膝の裏に汗をかいて気持ちが悪い。
「僕、盗ったんだ」
 左耳に波の音が聞こえる。さっきよりも大きな声を出したらしい。右耳で、少し言葉を拾った。聞こえない左耳の側でささやかれると、暗い押入の中のどこから聞こえてくるのかわからなくて奇妙な気持ちになる。
「さとしくんが」
 持ってこいっていうから。弟がささやく。
 近所に住んでいる、弟よりも二つ年上の男の子の名前が聞こえた。わたしよりも二つ年下の、子どもらしく元気で、子どもらしく横暴で、子どもらしく乱暴なところのある男の子だ。
「それで、今日」
 そこまで言って、弟が黙り込んだ。弟の不規則で浅い呼吸音が聞こえる。
 わたしはこの小さくか弱い弟が、ただただ愛おしかった。
 お姉ちゃん。弟がささやく。
 声は聞こえなかったけれど、何と言っているかわかった。
 弟が押入の中でわたしの左耳に告白するとき、言葉に詰まるといつも、お姉ちゃん、とすがるような声を出す。左耳の産毛は、お姉ちゃん、という言葉の吐息の強さを覚えている。
「落としちゃったんだ」
 弟の声が、外から聞こえる雨音のせいか、いつもより大人びた声に聞こえた。
「川に」
 さとしくんを、落としちゃったんだ。
 弟がささやく。弟の吐息は、湿って温かな雨の匂いがした。

3D文章ゼミ

テーマ:短編小説 - ジャンル:小説・文学

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