夕暮れのささやき/エフ
その家は、わたしが小学校に上がった頃にはもう空き家だったので、少なくとももう五年は誰も住まないまま、そこにあるのだった。
二階建ての古びたその家をぐるりと囲むコンクリート塀は、家のために誂えた棺のように見えた。家の中は暗く、カビと、植物の腐ったような匂いがする。玄関から入る僅かな光が、わたしが歩くたびにまき上がるホコリをちらちらと照らし出す。
「中、どうなってるぅ」
家の外から同じクラスの女子の声がする。げらげらと笑う声と共に、ちゃんと家中全部見てこなきゃランドセル返してやんねーからなとか、さっさと答えろよグズとかいう声が、ガラスを隔てたようにぼんやりと聞こえてくる。
「あんた、そこに住めばいいじゃん」
誰かが言って、他の女子がげらげら笑う。あいつが住んでるアパート、マジ、超ぼろいんだって。したら、貧乏アパート脱出じゃん。良かったじゃんよ。
どれも違う声の筈なのに全く区別がつかない。表でわんわんと鳴く蝉の声と混ざって、ノイズのように聞こえる。
「ちゃんと二階も見てこいよぉ」
だれか、あいつのびびってる顔撮ってこいよ。えー、写るかなぁ。
喉の内側が乾いて痒い。二三度咳き込むと、床がキシミシと音を立てた。壁に手をつくと、ぬるりと湿った感触がある。多分、苔が生えているのだ。
ぼんやりとした闇の奧に階段が見えていた。ゆっくりと忍び足で近づく。どんなに慎重に歩いても、床がきしむ音を立てるのがとても怖かった。
階段に足をかけると、表面の板が腐ってふかふかとしている。体重をかけるたび、階段はぎっぎっと歯ぎしりに似た音を立てる。小さな踊り場まで上るとつい、大きく息を吸い込んでしまい、ひどくむせた。
「本当は嫌なの、こういうの」
不意に背後から声をかけられて、一瞬、驚いて息が出来なかった。振り向くと女子が一人、わたしの後からぎっぎっと音を立てて階段を上ってきている。
「でもやらないと今度はこっちがいじめられるし」
携帯電話のカメラを向けられる。携帯電話のライトのせいなのか、こちらを見上げるその子の顔が暗く、真っ黒のお面を被ったようになっている。バシャ、と大げさなシャッター音が鳴った。
「ごめんね」
真っ黒のお面の中でその子の小さな歯が、ちらちらと白く光った。
両手で思い切り、その子の胸を突いた。その子は頭から階段を転げ落ちる。激しい大きな音が立って、少し腹立たしいような気持ちになった。
真っ黒のお面はその子から外れることなく一緒に階段を落ちていく。白い歯は見えない。ただ真っ黒だ。
その子が階段の下に落ちきる。携帯電話のライトが、苔むした床と漂うホコリを照らしている。家の外も中もしんとしている。蝉の声も聞こえない。
よかった。とても安心した気持ちで、静かになったその子を見下ろした。
『文章王の掌編小説ゼミ』
二階建ての古びたその家をぐるりと囲むコンクリート塀は、家のために誂えた棺のように見えた。家の中は暗く、カビと、植物の腐ったような匂いがする。玄関から入る僅かな光が、わたしが歩くたびにまき上がるホコリをちらちらと照らし出す。
「中、どうなってるぅ」
家の外から同じクラスの女子の声がする。げらげらと笑う声と共に、ちゃんと家中全部見てこなきゃランドセル返してやんねーからなとか、さっさと答えろよグズとかいう声が、ガラスを隔てたようにぼんやりと聞こえてくる。
「あんた、そこに住めばいいじゃん」
誰かが言って、他の女子がげらげら笑う。あいつが住んでるアパート、マジ、超ぼろいんだって。したら、貧乏アパート脱出じゃん。良かったじゃんよ。
どれも違う声の筈なのに全く区別がつかない。表でわんわんと鳴く蝉の声と混ざって、ノイズのように聞こえる。
「ちゃんと二階も見てこいよぉ」
だれか、あいつのびびってる顔撮ってこいよ。えー、写るかなぁ。
喉の内側が乾いて痒い。二三度咳き込むと、床がキシミシと音を立てた。壁に手をつくと、ぬるりと湿った感触がある。多分、苔が生えているのだ。
ぼんやりとした闇の奧に階段が見えていた。ゆっくりと忍び足で近づく。どんなに慎重に歩いても、床がきしむ音を立てるのがとても怖かった。
階段に足をかけると、表面の板が腐ってふかふかとしている。体重をかけるたび、階段はぎっぎっと歯ぎしりに似た音を立てる。小さな踊り場まで上るとつい、大きく息を吸い込んでしまい、ひどくむせた。
「本当は嫌なの、こういうの」
不意に背後から声をかけられて、一瞬、驚いて息が出来なかった。振り向くと女子が一人、わたしの後からぎっぎっと音を立てて階段を上ってきている。
「でもやらないと今度はこっちがいじめられるし」
携帯電話のカメラを向けられる。携帯電話のライトのせいなのか、こちらを見上げるその子の顔が暗く、真っ黒のお面を被ったようになっている。バシャ、と大げさなシャッター音が鳴った。
「ごめんね」
真っ黒のお面の中でその子の小さな歯が、ちらちらと白く光った。
両手で思い切り、その子の胸を突いた。その子は頭から階段を転げ落ちる。激しい大きな音が立って、少し腹立たしいような気持ちになった。
真っ黒のお面はその子から外れることなく一緒に階段を落ちていく。白い歯は見えない。ただ真っ黒だ。
その子が階段の下に落ちきる。携帯電話のライトが、苔むした床と漂うホコリを照らしている。家の外も中もしんとしている。蝉の声も聞こえない。
よかった。とても安心した気持ちで、静かになったその子を見下ろした。
『文章王の掌編小説ゼミ』
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