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幸福のしみ/エフ

 さあ、先生。犬になってください。
 椅子に足を組んで座った彼が、学生服の詰襟を片手でくつろげながら命令する。口元だけで僅かに微笑む彼の足元に近寄り、両手と両膝をついて四つん這いになる。途端、左頬に彼の手のひらが振り下ろされる。彼の冷たい指が頬骨に当たって、ぎし、とわたしの歯が擦れあう音が頭の中に響いた。
「どうしたんですか、返事は」
 彼の声は冷たい。わたしを見下ろす眼鏡越しの冷ややかな目は、自分の家庭教師を見る目ではない。まるで、死にかけた蝉を見るような目をしている。
「申し訳ありません」
 打たれた頬がひりひりと熱い。赤くなってしまっただろうか。今日はまだ他に、家庭教師に行く予定がある。
 どん、と鈍い音がわたしの腹の奥で響いて、腹ばいに床に潰された。ぐぅ、と蛙の潰れたような声が出て、ようやく彼に背中を踏まれたのだとわかった。
「何を考えているんですか」
 彼がわたしの背中を踏んだまま尋ねる。呼吸さえうまく出来ないまま切れ切れに、いえ何も、と答える。彼はわたしの潰れた声を聞いて、くくく、と笑い声を立てる。彼の起こす振動が、わたしの背中を細かく揺らした。見上げると、窓からさす西日に照らされた彼の瞳が、暗く深い底なしの沼に変わっている。
「他の生徒のことを考えていました」
 正直に答えると、彼は一瞬瞠目し、それからわたしの髪を鷲づかんだ。そのまま無理やりに彼の目の高さまで引っ張りあげられて、頭皮がちりちりと痛む。
 頬をひどく打たれるか、そうでなければ腹を殴られるかもしれない。そう考えると、太ももの裏側から暗く甘い快感がぞわぞわと這いのぼる。
「どうして、先生」
 予想に反して、彼はわたしの肩口に額を寄せて呟いただけだった。彼の丸い後頭部を見ながら、鳩尾の辺りがぐっと冷えたような気がした。
「わたしの生徒は他にも、いるんですよ」
 彼の耳元で囁いてやる。彼の無防備なうなじが、びくりと震えた。
「他のやつのことなんか考えないで」
 髪を引っ張られて床に引き倒された。後頭部を床に打って、目の前が一瞬白く見えた。彼がわたしの頭をつかんで、二三度床に叩きつける。後頭部を打ったのに、ぷゎっと鼻血が吹き出た。生理的な涙が溢れて、目の前が滲む。
「お願いだから、僕だけにしてよ、先生」
 彼がわたしの首をぐっとつかんで絞めた。顔がぶわぶわとむくんで痺れる。
「先生。好きだよ、先生」
 彼の懇願するような声が、水中を漂うようにぼやけて聞こえる。首の後ろが、あごの下が、目元が、ぞくぞくと焼けるように熱く甘く痺れる。窓の外から調子外れなピアニカの音が聞こえた。
 白く滲んだ視界に、こちらを見下ろしてひっそりと笑う彼が、じわじわとしみのように広がっていく。

『文章王の掌編小説ゼミ』

テーマ:短編小説 - ジャンル:小説・文学

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