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観音の穴/輔

「なんだって減りがはえぇや」
鏡前で藤二郎はため息とも舌打ちともつかない音と共につぶやいた。薄っぺらい座布団、擦れて毛羽立ちすっかり黄色くなった畳。鏡の両側に並ぶ照明はところどころ球が切れ、まだらな影を顔に落とす。痩せて肉が落ちた上に背骨も縮んだせいで、膝立ちしないと顎まで鏡に納まらない。ぐい、と厚くドーランを取り頬に引く。最近やけに減りが早い。化粧ノリが悪いせいだけじゃない。年齢に抗えず伸びて垂れ下がった分厚い面の皮と、何十年も繰り返してきた力任せのメイクで刻まれた深い皺にドーランがこそぎとられているからなのだ。でもそれももう気にすることは無い。なぜなら今日が藤二郎の最後の舞台だから。鏡横の切れた電球にパウチした写真が無造作にテープで貼り付けてある。藤二郎の女房の写真だ。目頭から目尻へ一息にドーランを引くと切れ長の目元になる。その目のまま写真に視線を流す。
「役者ってなぁ親の死に目にゃ会えねぇ稼業と言われはしたが…苦労をかけた恋女房のおまえさえ、ひとり逝かせちまってよ…すまねぇ、なぁ」
台詞のようにひとり写真に話しかける。ドーランを押さえたパフを目元から放しても引っ張られたシワはしばらく戻らない。羽二重を巻いた頭に白髪のカツラをつける。
今回は久しぶりにいい役どころだ。座長が花むけ代わりに役をつけてくれた。昔は舞台の上手から下手まで、まるで飛んでいるかのように跳躍するのが得意だった。客席も大いに沸いた。人情話で笑わせ、泣かせ。涙を押さえる客の白いハンカチが暗がりにひらひら綺麗だったっけ。
「恋しいおまえを泣かせもしたが、今日がおいらの花舞台。見ていてくれよぉ」
トン、と握りこぶしで自分の胸を叩いたら咳き込んでしまった。威勢のいい啖呵を切っても、身体の威勢はからっきしだ。鏡台に手をついてよろよろ伸び上がるように立つ。
「よっこら。あ、あ、あ、いててて。あぁ、いてぇ。畜生め。言うこと聞きやがれっ」
長年の酷使で水が溜まってぶよついた膝を硬くなった手の平で乱暴にさすった。
中腰のまま、片手で着物を尻っぱしょりする。浅葱色の股引はすっかり肉の落ちた腿の上でふよふよと揺れている。天井近くの神棚に挨拶をし、薄いドアを押して外に出た。
「行ってくらぁ」
ピータイルの床に草鞋が滑る。壁に手を付き用心しながら薄暗い廊下を擦るように歩く。舞台袖で出番を待っていると座長の声がよく通った。スポットライトの中で大量のホコリが蠢いている、そんな様子さえこれで見納めかと思うと幻想的に見えた。ロープやスイッチのひとつひとつに手書きで名前が貼ってある。この古い劇場は、せりの仕掛けも何もほとんどが手動だ。人手の少ない劇団のこと、一人何役もこなす。
今回の芝居の舞台は江戸時代。役どころは信心深いのに不幸せな百姓の爺さんだ。若いのがぽんぽん、と肩を叩く。出の合図だ。薄暗いボロ家の場面。中央のいろり端まで足を引きずりながら登場する。若い頃は老け役をやるのに苦労したが、いまじゃ何の芝居も要らなかった。最後の場面。己が不運を嘆き、打ちひしがれる爺さんの前にスポットライトを浴びて観音様が現れる。金銀の細かい紙吹雪が舞い、ライトが反射して神々しささえ漂う。
「あぁ、ありがてぇ。ありがてぇ。オラみてぇなもんのとこさ観音様ぁお姿現してくださるなんてよぉ。ありがてぇなぁ。眩しくってよぉ、よく、よく見えねぇや」
泣きながら拝む場面、膝の痛みに顔が歪んだ。客席から拍手とすすり泣きの音が聞こえる。満席とはいかないが上々の反応に藤二郎はほっと胸を撫で下ろした。これで心置きなく舞台を降りられる。観音様に当てられたライトが絞られ舞台は次第に暗がりになる。照明に合わせて観音様も下がっていく。下がり終わるや否やせりを操作していたスタッフが舞台端に駆け上がり、幕の端を掴み、上手から下手まで駆け足で幕を引く。揺れる幕の向こう、拍手の音が布一枚分、遠のいていく。
「…おしまい、か」
大向こうの掛け声、なりやまない拍手にお決まりのカーテンコール。劇団員が勢ぞろいする。中央の座長が両手を広げ満面の笑みで挨拶をし、藤二郎の引退を告げた。客席はきょとん、とした表情が多いように見えた。それはそうだ。主役を張ったことなど一度も無い役者など、よほどのことが無い限り顔も名前も覚えてはもらえまい。膝が言うことをきかない藤二郎は両脇を村娘や野良着の若者に抱えられ、形ばかりに頭を垂れた。鳴り止まない拍手の中、再度幕がひかれる。今度はすぅーっと水が引くように拍手の音が止んだ。
会場を出る客に挨拶するために他の役者はロビーに急ぐ。藤二郎だけが舞台に取り残された。
「お疲れ。お疲れさん。おい、藤二郎やい。なげぇこと頑張ったなぁ。あぁ、膝がいてぇ。いてぇなぁ。…よ…っこら、せっ」
板の上にひざまづいていると足そのものがこわばってしまって、すぐには立ち上がれなかった。四つん這いになりながら舞台の端を手で触って確認すると、ゆっくり、ゆっくり立ち上がった。藤二郎の腰が伸びる頃には客席も舞台袖も静まりかえっていた。居住まいを正し、軋む背筋をぎしぎしと伸ばす。臍の下に力を込める。舞台際に立ち胸を張り息を大きく吸う。肩甲骨が久しぶりに広がった肋骨に押し上げられペキペキと泡立つような小さい音を立てた。
重なりすぎたシワで二重か三重かわからなくなったまぶたをカッと見開き暗闇を見据え、ひと芝居。
「やあやあ、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ、我こそは、千両役者、酒田藤二郎なり!」
暗がりの中、顔のすぐ前に幕があった。精一杯の声音は無情にも幕に包まれ消えた。
「情ねぇ…。声が伸びやがらねぇ」
尻はしょりをし直し、股引をずり上げる。利き足をずいっと大きく引き、逆の足を力強く前へ出した。
「一世一代の跳びをご覧にいれます。酒田藤二郎、これにて跳び納めとあいなりまする」
往年の得意技、八艘跳びならぬ藤二郎跳び、上手から下手へ。この程度の舞台なら、調子のいいときなら十歩くらいでいけたものだったが、あれから相当の月日が流れた。
「はっ!」
後ろに引いた利き足を空中へ大きく踏み出す。その勢いで藤二郎は跳んだ。一歩、二歩、着地するたび膝がぶちぶちと音を立てた。三歩、四歩…往年の跳びに比べ高さも歩幅も半分も無い。五歩、六歩、飛べないガチョウを思わせる着地。七歩…八歩目は無かった。奈落へ落ちたのだ。観音様が引っ込んだその穴に。せり係は幕を引くのに忙しく、せりを元に戻さずそのままはけてしまったのだ。
暗がりの中、墨色の正方形の穴から舞台天井の吊り装置が見えた。
主役を演じたことない藤二郎には初めて見るせりからの景色だった。
「いててて…。ざまぁねぇやな。舞台の上で死ねりゃ役者冥利…。」
身体のあちこちが痛んだ。息を吸おうとすると背中に激痛が走った。
「ふぉっ…息が、息ができねぇ。舞台の上、上じゃありゃしねぇ。下ときてらぁ…」
床にこぼれた金銀の紙吹雪がちらちら、ちらちらと藤二郎の落ちた穴のふちからこぼれてきた。
「なんだ。綺麗じゃねぇか。雪か砂子か幻かってんだ。畜生め。これが、これがおいらの、役者藤二郎の最期でさぁ。観音様、観音様よぉ。何の因果でござんすかねぇ。あんまりじゃあござんせんかぁ」
藤二郎はおいおい泣いた。つい今しがた舞台の上でやった芝居以上に泣いた。あお向けに落ちた体は自分では動かせなかった。溢れる涙は複雑なシワを阿弥陀くじを辿るように伝い、口に届いた。
「うへぇ、油くせぇっ!」
暗い穴の底から低い低い笑い声が響いていた。

テーマ:短編小説 - ジャンル:小説・文学

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