11歳の偏執/ちとく
布団の中で少年は、剥けそうなチョメゾーの包皮を、必死で先へ先へと集めていた。触ると痛い中の肉のこと、剥がすと出てくる臭い垢のこと、風呂場で剥くと湯が腹の中に入ってしまいそうな不安などについて、いつか本当の父親が教えてくれる筈だった。
少年が寝室から出ると、洗面所周辺は、父親の整髪料と煙草の匂いで充満していた。
少年は、寝床に入ってもすぐには眠れない性質で、必然的に朝は寝覚めが悪く、いつも両親どちらかの怒鳴り声で目を覚ましていた。既に着替えの終わっている妹を尻目に、少年は父親に気を使った。「お父さん、お早うございます!」ところが父親は少年に甘くなかった。「いつまで寝てんだ、この馬鹿!」
父親は、母親の支度が遅れると、自ら台所で茶を淹れた。母親にとってそれは当てこすりであり、たいてい「私がやるから向こうへ行ってて」と憤った。父親は、待ってましたとばかりに怒鳴った。「お前がやらんからやってるんだよ、なんだその態度は、この馬鹿!」
負けん気の強い母親は、「悪うございましたっ」と吐き捨てて少しも悪びれず、父親を無視して子供たちの着替えを出したり、ベランダの洗濯機と風呂場をこれ見よがしに往復していた。
先に起きていた妹の忘れ物チェックを済ますと父親は、しばらく便所に引きこもった。そのタイミングで、毎朝少年は食卓に向い、焼き冷ましの食パンなどを齧るのであった。
どんなに時刻が逼迫しようとも、朝食を残さなかった少年は、小学校の遅刻が日常的であった。少年にとっては、先生に叱られるより、食卓に出された朝食を残さないことの方が大事だったし、両親もそれを咎めなかったからだ。
「紙がねえぞお!」
便所のドアに、中からチリ紙置きがぶつけられて、一瞬、朝の慌ただしさが止まった。少年は、チリ紙を取りに行こうとしたが「いいから食べなさい!」と母親に制された。母親は、なおも悪態つきながらチリ紙の入っている押入れを開けた。「早く持ってこい!」再び父親がヒステリックに怒鳴った。
父親が便所から出ると、「おしっこ」とわざわざ口に出して、少年は逃げるように便所に入った。
父親の後の便器には、いつも吸殻が捨ててあった。少年は、チョメゾーの先を吸殻に向けた。小便が飛び出す直前、下を向いた包皮が皺を伸ばし、マンガの蛸が口を尖らすように少し伸びた。「行け」と小さく呟くが、包皮で小便がシャワー状になるので、少年は少しだけチョメゾーの先を剥いた。
小便は的確に命中、吸殻は平たい便鉢から押し出されて、金隠しの溜め水に落とされた。少年は、力を込めて、残り少ない小便を吸殻に命中させ続けた。くるくる回っていた吸殻は、やがて紙が破れてフィルター部分が分離し、刻まれた煙草の葉が溜め水一面に散らばった。
事を成し終えた少年は、小便のついた包皮を先へ先へと丸めて下着をはき、貯水タンクの洗浄レバーに手をかけた。
「ゴゴー」と呟きながら少年は、父親の捨てた吸殻が便器に飲み込まれていくのをじっと見ていた。
「いつまでやってんだ、この馬鹿!」少年が便所から出ると、父親は靴を履きながら罵った。その時そこには、母親も妹もいなかった。「いってらっしゃい」少年は、父親が出て行くまで一人でそこに立っていた。
本当の父親が現れにくくなっては困ると考えて、少年はいつも、父親に気を使っていたのだった。
少年が寝室から出ると、洗面所周辺は、父親の整髪料と煙草の匂いで充満していた。
少年は、寝床に入ってもすぐには眠れない性質で、必然的に朝は寝覚めが悪く、いつも両親どちらかの怒鳴り声で目を覚ましていた。既に着替えの終わっている妹を尻目に、少年は父親に気を使った。「お父さん、お早うございます!」ところが父親は少年に甘くなかった。「いつまで寝てんだ、この馬鹿!」
父親は、母親の支度が遅れると、自ら台所で茶を淹れた。母親にとってそれは当てこすりであり、たいてい「私がやるから向こうへ行ってて」と憤った。父親は、待ってましたとばかりに怒鳴った。「お前がやらんからやってるんだよ、なんだその態度は、この馬鹿!」
負けん気の強い母親は、「悪うございましたっ」と吐き捨てて少しも悪びれず、父親を無視して子供たちの着替えを出したり、ベランダの洗濯機と風呂場をこれ見よがしに往復していた。
先に起きていた妹の忘れ物チェックを済ますと父親は、しばらく便所に引きこもった。そのタイミングで、毎朝少年は食卓に向い、焼き冷ましの食パンなどを齧るのであった。
どんなに時刻が逼迫しようとも、朝食を残さなかった少年は、小学校の遅刻が日常的であった。少年にとっては、先生に叱られるより、食卓に出された朝食を残さないことの方が大事だったし、両親もそれを咎めなかったからだ。
「紙がねえぞお!」
便所のドアに、中からチリ紙置きがぶつけられて、一瞬、朝の慌ただしさが止まった。少年は、チリ紙を取りに行こうとしたが「いいから食べなさい!」と母親に制された。母親は、なおも悪態つきながらチリ紙の入っている押入れを開けた。「早く持ってこい!」再び父親がヒステリックに怒鳴った。
父親が便所から出ると、「おしっこ」とわざわざ口に出して、少年は逃げるように便所に入った。
父親の後の便器には、いつも吸殻が捨ててあった。少年は、チョメゾーの先を吸殻に向けた。小便が飛び出す直前、下を向いた包皮が皺を伸ばし、マンガの蛸が口を尖らすように少し伸びた。「行け」と小さく呟くが、包皮で小便がシャワー状になるので、少年は少しだけチョメゾーの先を剥いた。
小便は的確に命中、吸殻は平たい便鉢から押し出されて、金隠しの溜め水に落とされた。少年は、力を込めて、残り少ない小便を吸殻に命中させ続けた。くるくる回っていた吸殻は、やがて紙が破れてフィルター部分が分離し、刻まれた煙草の葉が溜め水一面に散らばった。
事を成し終えた少年は、小便のついた包皮を先へ先へと丸めて下着をはき、貯水タンクの洗浄レバーに手をかけた。
「ゴゴー」と呟きながら少年は、父親の捨てた吸殻が便器に飲み込まれていくのをじっと見ていた。
「いつまでやってんだ、この馬鹿!」少年が便所から出ると、父親は靴を履きながら罵った。その時そこには、母親も妹もいなかった。「いってらっしゃい」少年は、父親が出て行くまで一人でそこに立っていた。
本当の父親が現れにくくなっては困ると考えて、少年はいつも、父親に気を使っていたのだった。
破水/でんでら
カズネは男に抱かれながら自分の親指の爪を噛んでいた。苔むした土が背中にあたり、じっとりと素肌をぬらす。遥か高い場所でブナの梢がゆらりと揺れているのが見えた。梢の隙間から珍しく真昼の日差しを吸い込んだ、蒼い夏の空が見えた。
アリアケ山の中腹に広がる森は、霧に覆われていることが多かった。土にも岩にも幹にも黄緑色の苔がびっちりとはえている。まるでヒスイの玉の中へ閉じ込められているようだ。
震えるカズネの指を男がそっと唇から離した。リクだった。遠方へ塩を運ぶ、塩運びたちの護衛を務める青年だった。指先からかすかに血の臭いがした。さっき殺した二人の間者のものなのか、一緒に旅をした亡命者の血の臭いなのかわからなかった。リクの唇が重なる。経験したことのない肌触りにカズネの体はこわばった。
□
カズネの両親は塩運びを生業としている。住んでいるタナミネの山で採れた塩を、南の海まで続く街道沿いの宿へ届けるのだ。そして帰りは海塩を背負って帰ってくる。それを山間の集落に届ける。カズネも十二歳になると家業を手伝い始めた。カズネは一度通った獣道をしっかりと記憶している少女だった。他の運び屋たちが気がつかないような植物を覚えていて、山で遭難しかけた一行を救ったこともある。まさに天職だった。
その腕を買われて政変に敗れた落人(おちゅうど)を、山向こうの土地へ逃がす役目を、塩運びの長から頼まれた。塩運びの裏仕事を十六歳の少女が決行するなどとは、誰の目から見ても無謀だった。カズネの父親は、西の山脈の麓に住む連中に任せたらいいじゃないか、と猛反発した。だが双方の集落では、春先に都で流行した熱病が襲いかかり、長老から落人逃がしの許可を得た者は、他界したか死線をさまよっていた。落人の婦人がそっと包みを開けた。「これで熱病のお薬でも」ろうそくの火で黄金が一瞬きらめいた。その場にいた全員が沈黙した。タナミネは都の氏族の支配下にあるため、安値で指定された宿に山塩を売り、高値で海塩を購入せねばならなかった。乏しい資金では購入できる薬にも限りがあり、幼い子は「間引き」と称して放置された。「……あたし、やるよ」カズネは呟いた。
それでも父親は躊躇していた。未経験者は経験者と組んで初仕事を行うからだ。話合いの末、護衛の館に残っているリクをつけることで合意した。二十四歳だが、二度も官僚級の落人逃がしを成功させている。官僚に比べれば、婦人は位が低い。放たれる間者もリクが経験した連中に比べたらたいしたことはないだろう。いずれまた政変は起きる。都は大体、二・三年単位で政の主が交代する。もしも、婦人が返り咲けば見返りがある。山塩が今年に入って若干値上がりしたのも、見返りの一つだった。
だが、アテは外れた。一人目の間者はリクに切り込まれた衝撃で腸が飛び出した。悶えながらカズネの方へ倒れこんだ。凄惨な光景を目撃したカズネは、間者を抱きかかえるようにして意識を失った。
カズネが間者の死体の下で目を覚ましたとき、あたりは血の臭いに満ちていた。リクが腕をもがれて呻く落人の胸元に、剣をつきたてた。狼がほえるような野太い叫び声をあげて、婦人は絶命した。俊敏だと信頼を得ていたリクが失敗した。自分の道選びも失敗した。カズネは吐き指を噛んだ。
□
死体の前で怯えながら、自分の歯で爪をはがしているカズネをリクが不思議そうに見つめていた。「父さんも俺が母さんを殺したら同じように震えていた」と呟いた。「酒びたりでわめくことしかしないから、父さんが死ねと罵倒したんだ。俺もそう思った」その無感情な言い方で、リクがたった十歳で海辺に住む親元から離され、塩運びの集落に預けられた理由がわかった。彼は人を殺すようにと神に定められた人間だったのだ。
右手の爪が親指だけになったとき、膝を抱えて座っているカズネを背後からリクが抱きすくめた。「破傷風になるぞ」リクがなだめる。集落では一度も聞いたことのない温かい声。カズネが指を加えたまま振り向くと、リクはカズネを地に仰向けに倒した。前袷の衣をそっと脱がし竹筒から水を飲むと、カズネの指をはがし唇に接吻した。
リクの唇から流し込まれた水は苦かった。多分傷の炎症を抑える薬が入っている。カズネは吐き出した。婦人の叫びを思い出すと自分だけ助かることが憚れた。リクはそれでも諦めなかった。三度目のときカズネの目から涙がこぼれた。
飲み込んだことを見届けたリクはそっと胸をまさぐり、乳首の先を軽く噛んだ。びくっと、カズネの体が反応した。リクがにやっと笑う。初めて見る笑みだった。
そのままリクは舌をみぞおちに這わせた。カズネはたまらず呻いた。袴の紐が解かれる。太腿を持ち上げられる。ひんやりとした風が秘部の茂みを通りすぎた。リクの手が花芯の突端をつまむ。カズネはかすれた声で応えた。やがて花芯から水溜りに足を踏み入れたような、ぴちゃっという音が聞こえた。カズネの胎内から生まれた水をリクがすすっていた。「嫌っ……」ざらりとした舌の動きに腰骨が熱くなる。カズネの息が浅くなる。死の光景が霞む。砂浜にかかれた文字が波によって消されていくように。それでも婦人の絶叫がカズネを現実に引き戻す。
「力をぬけ」リクが囁いた。目が合った。次の瞬間、石のように硬い異物がカズネの肉体に食い込んだ。「お母さん!」カズネは悲鳴をあげた。暴れるとリクに腕を押さえつけられた。やがて石は胎内で蛇となった。蛇は子宮をかき回す。
「……う」カズネは男に応えはじめていた。鈍い痛みに足の指一本一本がぴりぴりとしびれた。乳首の先がちりちりと痛い。乳房を引裂いて何かが出たいと願っている。産まれたいと願っている。カズネは産気づいた女のように、激しくあえいでいた。「何か」は心の深い処から徐々に浮上してくる。やがて姿を現した快楽という「魂」が、男の激しい息遣いに引き寄せられた。カズネは自らの唇を男に重ねた。歯がぶつかり合う。お互いの舌が絡んだ瞬間、激しい尿意を催した。腿の内側を温かい水がつたう。失禁していた。うっすらと眠気が漂いはじめる。カズネは、男が呻いて胎内に精を放った瞬間、すとんと眠りの闇に落ちていった。一緒に死の残像も闇に落ちていった。
□
カズネは頬を叩かれて目を覚ました。リクの顔が見えた。木漏れ日が眩しい。起き上がって周囲を見渡すと、死体が目に飛び込んできた。ハエが一匹婦人の鼻先で円を描いている。一瞬、罪悪感が胸をよぎる。だが直ぐにその気持ちを飲み込んだ。平常心を取り戻したカズネは、立ち上がった。とにかく帰郷しなくては。太腿をリクの残骸がつっ、と流れ落ちる。カズネは冷たい水を感じながらアリアケ山に背を向けた。
アリアケ山の中腹に広がる森は、霧に覆われていることが多かった。土にも岩にも幹にも黄緑色の苔がびっちりとはえている。まるでヒスイの玉の中へ閉じ込められているようだ。
震えるカズネの指を男がそっと唇から離した。リクだった。遠方へ塩を運ぶ、塩運びたちの護衛を務める青年だった。指先からかすかに血の臭いがした。さっき殺した二人の間者のものなのか、一緒に旅をした亡命者の血の臭いなのかわからなかった。リクの唇が重なる。経験したことのない肌触りにカズネの体はこわばった。
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カズネの両親は塩運びを生業としている。住んでいるタナミネの山で採れた塩を、南の海まで続く街道沿いの宿へ届けるのだ。そして帰りは海塩を背負って帰ってくる。それを山間の集落に届ける。カズネも十二歳になると家業を手伝い始めた。カズネは一度通った獣道をしっかりと記憶している少女だった。他の運び屋たちが気がつかないような植物を覚えていて、山で遭難しかけた一行を救ったこともある。まさに天職だった。
その腕を買われて政変に敗れた落人(おちゅうど)を、山向こうの土地へ逃がす役目を、塩運びの長から頼まれた。塩運びの裏仕事を十六歳の少女が決行するなどとは、誰の目から見ても無謀だった。カズネの父親は、西の山脈の麓に住む連中に任せたらいいじゃないか、と猛反発した。だが双方の集落では、春先に都で流行した熱病が襲いかかり、長老から落人逃がしの許可を得た者は、他界したか死線をさまよっていた。落人の婦人がそっと包みを開けた。「これで熱病のお薬でも」ろうそくの火で黄金が一瞬きらめいた。その場にいた全員が沈黙した。タナミネは都の氏族の支配下にあるため、安値で指定された宿に山塩を売り、高値で海塩を購入せねばならなかった。乏しい資金では購入できる薬にも限りがあり、幼い子は「間引き」と称して放置された。「……あたし、やるよ」カズネは呟いた。
それでも父親は躊躇していた。未経験者は経験者と組んで初仕事を行うからだ。話合いの末、護衛の館に残っているリクをつけることで合意した。二十四歳だが、二度も官僚級の落人逃がしを成功させている。官僚に比べれば、婦人は位が低い。放たれる間者もリクが経験した連中に比べたらたいしたことはないだろう。いずれまた政変は起きる。都は大体、二・三年単位で政の主が交代する。もしも、婦人が返り咲けば見返りがある。山塩が今年に入って若干値上がりしたのも、見返りの一つだった。
だが、アテは外れた。一人目の間者はリクに切り込まれた衝撃で腸が飛び出した。悶えながらカズネの方へ倒れこんだ。凄惨な光景を目撃したカズネは、間者を抱きかかえるようにして意識を失った。
カズネが間者の死体の下で目を覚ましたとき、あたりは血の臭いに満ちていた。リクが腕をもがれて呻く落人の胸元に、剣をつきたてた。狼がほえるような野太い叫び声をあげて、婦人は絶命した。俊敏だと信頼を得ていたリクが失敗した。自分の道選びも失敗した。カズネは吐き指を噛んだ。
□
死体の前で怯えながら、自分の歯で爪をはがしているカズネをリクが不思議そうに見つめていた。「父さんも俺が母さんを殺したら同じように震えていた」と呟いた。「酒びたりでわめくことしかしないから、父さんが死ねと罵倒したんだ。俺もそう思った」その無感情な言い方で、リクがたった十歳で海辺に住む親元から離され、塩運びの集落に預けられた理由がわかった。彼は人を殺すようにと神に定められた人間だったのだ。
右手の爪が親指だけになったとき、膝を抱えて座っているカズネを背後からリクが抱きすくめた。「破傷風になるぞ」リクがなだめる。集落では一度も聞いたことのない温かい声。カズネが指を加えたまま振り向くと、リクはカズネを地に仰向けに倒した。前袷の衣をそっと脱がし竹筒から水を飲むと、カズネの指をはがし唇に接吻した。
リクの唇から流し込まれた水は苦かった。多分傷の炎症を抑える薬が入っている。カズネは吐き出した。婦人の叫びを思い出すと自分だけ助かることが憚れた。リクはそれでも諦めなかった。三度目のときカズネの目から涙がこぼれた。
飲み込んだことを見届けたリクはそっと胸をまさぐり、乳首の先を軽く噛んだ。びくっと、カズネの体が反応した。リクがにやっと笑う。初めて見る笑みだった。
そのままリクは舌をみぞおちに這わせた。カズネはたまらず呻いた。袴の紐が解かれる。太腿を持ち上げられる。ひんやりとした風が秘部の茂みを通りすぎた。リクの手が花芯の突端をつまむ。カズネはかすれた声で応えた。やがて花芯から水溜りに足を踏み入れたような、ぴちゃっという音が聞こえた。カズネの胎内から生まれた水をリクがすすっていた。「嫌っ……」ざらりとした舌の動きに腰骨が熱くなる。カズネの息が浅くなる。死の光景が霞む。砂浜にかかれた文字が波によって消されていくように。それでも婦人の絶叫がカズネを現実に引き戻す。
「力をぬけ」リクが囁いた。目が合った。次の瞬間、石のように硬い異物がカズネの肉体に食い込んだ。「お母さん!」カズネは悲鳴をあげた。暴れるとリクに腕を押さえつけられた。やがて石は胎内で蛇となった。蛇は子宮をかき回す。
「……う」カズネは男に応えはじめていた。鈍い痛みに足の指一本一本がぴりぴりとしびれた。乳首の先がちりちりと痛い。乳房を引裂いて何かが出たいと願っている。産まれたいと願っている。カズネは産気づいた女のように、激しくあえいでいた。「何か」は心の深い処から徐々に浮上してくる。やがて姿を現した快楽という「魂」が、男の激しい息遣いに引き寄せられた。カズネは自らの唇を男に重ねた。歯がぶつかり合う。お互いの舌が絡んだ瞬間、激しい尿意を催した。腿の内側を温かい水がつたう。失禁していた。うっすらと眠気が漂いはじめる。カズネは、男が呻いて胎内に精を放った瞬間、すとんと眠りの闇に落ちていった。一緒に死の残像も闇に落ちていった。
□
カズネは頬を叩かれて目を覚ました。リクの顔が見えた。木漏れ日が眩しい。起き上がって周囲を見渡すと、死体が目に飛び込んできた。ハエが一匹婦人の鼻先で円を描いている。一瞬、罪悪感が胸をよぎる。だが直ぐにその気持ちを飲み込んだ。平常心を取り戻したカズネは、立ち上がった。とにかく帰郷しなくては。太腿をリクの残骸がつっ、と流れ落ちる。カズネは冷たい水を感じながらアリアケ山に背を向けた。
「文章王の掌編小説ゼミ」9月度 募集中!
◆『文章王の掌編小説ゼミ』 2009年9月度
- 時間:2009年9月25日(金) 19時より 2時間程度
- 場所:東京都豊島区目白3-2-9-4階
- 地図:http://www.hiden.jp/contact/map.php
- 料金:3,000円(1400字)または 4,000円(2800字)
(オンラインは1,000円UP) - 詳細:http://www.hiden.jp/semi-2009/
◆申込み締め切り 9月18日(金)
◆投稿締め切り 9月22日(火)
観音の穴/輔
「なんだって減りがはえぇや」
鏡前で藤二郎はため息とも舌打ちともつかない音と共につぶやいた。薄っぺらい座布団、擦れて毛羽立ちすっかり黄色くなった畳。鏡の両側に並ぶ照明はところどころ球が切れ、まだらな影を顔に落とす。痩せて肉が落ちた上に背骨も縮んだせいで、膝立ちしないと顎まで鏡に納まらない。ぐい、と厚くドーランを取り頬に引く。最近やけに減りが早い。化粧ノリが悪いせいだけじゃない。年齢に抗えず伸びて垂れ下がった分厚い面の皮と、何十年も繰り返してきた力任せのメイクで刻まれた深い皺にドーランがこそぎとられているからなのだ。でもそれももう気にすることは無い。なぜなら今日が藤二郎の最後の舞台だから。鏡横の切れた電球にパウチした写真が無造作にテープで貼り付けてある。藤二郎の女房の写真だ。目頭から目尻へ一息にドーランを引くと切れ長の目元になる。その目のまま写真に視線を流す。
「役者ってなぁ親の死に目にゃ会えねぇ稼業と言われはしたが…苦労をかけた恋女房のおまえさえ、ひとり逝かせちまってよ…すまねぇ、なぁ」
台詞のようにひとり写真に話しかける。ドーランを押さえたパフを目元から放しても引っ張られたシワはしばらく戻らない。羽二重を巻いた頭に白髪のカツラをつける。
今回は久しぶりにいい役どころだ。座長が花むけ代わりに役をつけてくれた。昔は舞台の上手から下手まで、まるで飛んでいるかのように跳躍するのが得意だった。客席も大いに沸いた。人情話で笑わせ、泣かせ。涙を押さえる客の白いハンカチが暗がりにひらひら綺麗だったっけ。
「恋しいおまえを泣かせもしたが、今日がおいらの花舞台。見ていてくれよぉ」
トン、と握りこぶしで自分の胸を叩いたら咳き込んでしまった。威勢のいい啖呵を切っても、身体の威勢はからっきしだ。鏡台に手をついてよろよろ伸び上がるように立つ。
「よっこら。あ、あ、あ、いててて。あぁ、いてぇ。畜生め。言うこと聞きやがれっ」
長年の酷使で水が溜まってぶよついた膝を硬くなった手の平で乱暴にさすった。
中腰のまま、片手で着物を尻っぱしょりする。浅葱色の股引はすっかり肉の落ちた腿の上でふよふよと揺れている。天井近くの神棚に挨拶をし、薄いドアを押して外に出た。
「行ってくらぁ」
ピータイルの床に草鞋が滑る。壁に手を付き用心しながら薄暗い廊下を擦るように歩く。舞台袖で出番を待っていると座長の声がよく通った。スポットライトの中で大量のホコリが蠢いている、そんな様子さえこれで見納めかと思うと幻想的に見えた。ロープやスイッチのひとつひとつに手書きで名前が貼ってある。この古い劇場は、せりの仕掛けも何もほとんどが手動だ。人手の少ない劇団のこと、一人何役もこなす。
今回の芝居の舞台は江戸時代。役どころは信心深いのに不幸せな百姓の爺さんだ。若いのがぽんぽん、と肩を叩く。出の合図だ。薄暗いボロ家の場面。中央のいろり端まで足を引きずりながら登場する。若い頃は老け役をやるのに苦労したが、いまじゃ何の芝居も要らなかった。最後の場面。己が不運を嘆き、打ちひしがれる爺さんの前にスポットライトを浴びて観音様が現れる。金銀の細かい紙吹雪が舞い、ライトが反射して神々しささえ漂う。
「あぁ、ありがてぇ。ありがてぇ。オラみてぇなもんのとこさ観音様ぁお姿現してくださるなんてよぉ。ありがてぇなぁ。眩しくってよぉ、よく、よく見えねぇや」
泣きながら拝む場面、膝の痛みに顔が歪んだ。客席から拍手とすすり泣きの音が聞こえる。満席とはいかないが上々の反応に藤二郎はほっと胸を撫で下ろした。これで心置きなく舞台を降りられる。観音様に当てられたライトが絞られ舞台は次第に暗がりになる。照明に合わせて観音様も下がっていく。下がり終わるや否やせりを操作していたスタッフが舞台端に駆け上がり、幕の端を掴み、上手から下手まで駆け足で幕を引く。揺れる幕の向こう、拍手の音が布一枚分、遠のいていく。
「…おしまい、か」
大向こうの掛け声、なりやまない拍手にお決まりのカーテンコール。劇団員が勢ぞろいする。中央の座長が両手を広げ満面の笑みで挨拶をし、藤二郎の引退を告げた。客席はきょとん、とした表情が多いように見えた。それはそうだ。主役を張ったことなど一度も無い役者など、よほどのことが無い限り顔も名前も覚えてはもらえまい。膝が言うことをきかない藤二郎は両脇を村娘や野良着の若者に抱えられ、形ばかりに頭を垂れた。鳴り止まない拍手の中、再度幕がひかれる。今度はすぅーっと水が引くように拍手の音が止んだ。
会場を出る客に挨拶するために他の役者はロビーに急ぐ。藤二郎だけが舞台に取り残された。
「お疲れ。お疲れさん。おい、藤二郎やい。なげぇこと頑張ったなぁ。あぁ、膝がいてぇ。いてぇなぁ。…よ…っこら、せっ」
板の上にひざまづいていると足そのものがこわばってしまって、すぐには立ち上がれなかった。四つん這いになりながら舞台の端を手で触って確認すると、ゆっくり、ゆっくり立ち上がった。藤二郎の腰が伸びる頃には客席も舞台袖も静まりかえっていた。居住まいを正し、軋む背筋をぎしぎしと伸ばす。臍の下に力を込める。舞台際に立ち胸を張り息を大きく吸う。肩甲骨が久しぶりに広がった肋骨に押し上げられペキペキと泡立つような小さい音を立てた。
重なりすぎたシワで二重か三重かわからなくなったまぶたをカッと見開き暗闇を見据え、ひと芝居。
「やあやあ、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ、我こそは、千両役者、酒田藤二郎なり!」
暗がりの中、顔のすぐ前に幕があった。精一杯の声音は無情にも幕に包まれ消えた。
「情ねぇ…。声が伸びやがらねぇ」
尻はしょりをし直し、股引をずり上げる。利き足をずいっと大きく引き、逆の足を力強く前へ出した。
「一世一代の跳びをご覧にいれます。酒田藤二郎、これにて跳び納めとあいなりまする」
往年の得意技、八艘跳びならぬ藤二郎跳び、上手から下手へ。この程度の舞台なら、調子のいいときなら十歩くらいでいけたものだったが、あれから相当の月日が流れた。
「はっ!」
後ろに引いた利き足を空中へ大きく踏み出す。その勢いで藤二郎は跳んだ。一歩、二歩、着地するたび膝がぶちぶちと音を立てた。三歩、四歩…往年の跳びに比べ高さも歩幅も半分も無い。五歩、六歩、飛べないガチョウを思わせる着地。七歩…八歩目は無かった。奈落へ落ちたのだ。観音様が引っ込んだその穴に。せり係は幕を引くのに忙しく、せりを元に戻さずそのままはけてしまったのだ。
暗がりの中、墨色の正方形の穴から舞台天井の吊り装置が見えた。
主役を演じたことない藤二郎には初めて見るせりからの景色だった。
「いててて…。ざまぁねぇやな。舞台の上で死ねりゃ役者冥利…。」
身体のあちこちが痛んだ。息を吸おうとすると背中に激痛が走った。
「ふぉっ…息が、息ができねぇ。舞台の上、上じゃありゃしねぇ。下ときてらぁ…」
床にこぼれた金銀の紙吹雪がちらちら、ちらちらと藤二郎の落ちた穴のふちからこぼれてきた。
「なんだ。綺麗じゃねぇか。雪か砂子か幻かってんだ。畜生め。これが、これがおいらの、役者藤二郎の最期でさぁ。観音様、観音様よぉ。何の因果でござんすかねぇ。あんまりじゃあござんせんかぁ」
藤二郎はおいおい泣いた。つい今しがた舞台の上でやった芝居以上に泣いた。あお向けに落ちた体は自分では動かせなかった。溢れる涙は複雑なシワを阿弥陀くじを辿るように伝い、口に届いた。
「うへぇ、油くせぇっ!」
暗い穴の底から低い低い笑い声が響いていた。
鏡前で藤二郎はため息とも舌打ちともつかない音と共につぶやいた。薄っぺらい座布団、擦れて毛羽立ちすっかり黄色くなった畳。鏡の両側に並ぶ照明はところどころ球が切れ、まだらな影を顔に落とす。痩せて肉が落ちた上に背骨も縮んだせいで、膝立ちしないと顎まで鏡に納まらない。ぐい、と厚くドーランを取り頬に引く。最近やけに減りが早い。化粧ノリが悪いせいだけじゃない。年齢に抗えず伸びて垂れ下がった分厚い面の皮と、何十年も繰り返してきた力任せのメイクで刻まれた深い皺にドーランがこそぎとられているからなのだ。でもそれももう気にすることは無い。なぜなら今日が藤二郎の最後の舞台だから。鏡横の切れた電球にパウチした写真が無造作にテープで貼り付けてある。藤二郎の女房の写真だ。目頭から目尻へ一息にドーランを引くと切れ長の目元になる。その目のまま写真に視線を流す。
「役者ってなぁ親の死に目にゃ会えねぇ稼業と言われはしたが…苦労をかけた恋女房のおまえさえ、ひとり逝かせちまってよ…すまねぇ、なぁ」
台詞のようにひとり写真に話しかける。ドーランを押さえたパフを目元から放しても引っ張られたシワはしばらく戻らない。羽二重を巻いた頭に白髪のカツラをつける。
今回は久しぶりにいい役どころだ。座長が花むけ代わりに役をつけてくれた。昔は舞台の上手から下手まで、まるで飛んでいるかのように跳躍するのが得意だった。客席も大いに沸いた。人情話で笑わせ、泣かせ。涙を押さえる客の白いハンカチが暗がりにひらひら綺麗だったっけ。
「恋しいおまえを泣かせもしたが、今日がおいらの花舞台。見ていてくれよぉ」
トン、と握りこぶしで自分の胸を叩いたら咳き込んでしまった。威勢のいい啖呵を切っても、身体の威勢はからっきしだ。鏡台に手をついてよろよろ伸び上がるように立つ。
「よっこら。あ、あ、あ、いててて。あぁ、いてぇ。畜生め。言うこと聞きやがれっ」
長年の酷使で水が溜まってぶよついた膝を硬くなった手の平で乱暴にさすった。
中腰のまま、片手で着物を尻っぱしょりする。浅葱色の股引はすっかり肉の落ちた腿の上でふよふよと揺れている。天井近くの神棚に挨拶をし、薄いドアを押して外に出た。
「行ってくらぁ」
ピータイルの床に草鞋が滑る。壁に手を付き用心しながら薄暗い廊下を擦るように歩く。舞台袖で出番を待っていると座長の声がよく通った。スポットライトの中で大量のホコリが蠢いている、そんな様子さえこれで見納めかと思うと幻想的に見えた。ロープやスイッチのひとつひとつに手書きで名前が貼ってある。この古い劇場は、せりの仕掛けも何もほとんどが手動だ。人手の少ない劇団のこと、一人何役もこなす。
今回の芝居の舞台は江戸時代。役どころは信心深いのに不幸せな百姓の爺さんだ。若いのがぽんぽん、と肩を叩く。出の合図だ。薄暗いボロ家の場面。中央のいろり端まで足を引きずりながら登場する。若い頃は老け役をやるのに苦労したが、いまじゃ何の芝居も要らなかった。最後の場面。己が不運を嘆き、打ちひしがれる爺さんの前にスポットライトを浴びて観音様が現れる。金銀の細かい紙吹雪が舞い、ライトが反射して神々しささえ漂う。
「あぁ、ありがてぇ。ありがてぇ。オラみてぇなもんのとこさ観音様ぁお姿現してくださるなんてよぉ。ありがてぇなぁ。眩しくってよぉ、よく、よく見えねぇや」
泣きながら拝む場面、膝の痛みに顔が歪んだ。客席から拍手とすすり泣きの音が聞こえる。満席とはいかないが上々の反応に藤二郎はほっと胸を撫で下ろした。これで心置きなく舞台を降りられる。観音様に当てられたライトが絞られ舞台は次第に暗がりになる。照明に合わせて観音様も下がっていく。下がり終わるや否やせりを操作していたスタッフが舞台端に駆け上がり、幕の端を掴み、上手から下手まで駆け足で幕を引く。揺れる幕の向こう、拍手の音が布一枚分、遠のいていく。
「…おしまい、か」
大向こうの掛け声、なりやまない拍手にお決まりのカーテンコール。劇団員が勢ぞろいする。中央の座長が両手を広げ満面の笑みで挨拶をし、藤二郎の引退を告げた。客席はきょとん、とした表情が多いように見えた。それはそうだ。主役を張ったことなど一度も無い役者など、よほどのことが無い限り顔も名前も覚えてはもらえまい。膝が言うことをきかない藤二郎は両脇を村娘や野良着の若者に抱えられ、形ばかりに頭を垂れた。鳴り止まない拍手の中、再度幕がひかれる。今度はすぅーっと水が引くように拍手の音が止んだ。
会場を出る客に挨拶するために他の役者はロビーに急ぐ。藤二郎だけが舞台に取り残された。
「お疲れ。お疲れさん。おい、藤二郎やい。なげぇこと頑張ったなぁ。あぁ、膝がいてぇ。いてぇなぁ。…よ…っこら、せっ」
板の上にひざまづいていると足そのものがこわばってしまって、すぐには立ち上がれなかった。四つん這いになりながら舞台の端を手で触って確認すると、ゆっくり、ゆっくり立ち上がった。藤二郎の腰が伸びる頃には客席も舞台袖も静まりかえっていた。居住まいを正し、軋む背筋をぎしぎしと伸ばす。臍の下に力を込める。舞台際に立ち胸を張り息を大きく吸う。肩甲骨が久しぶりに広がった肋骨に押し上げられペキペキと泡立つような小さい音を立てた。
重なりすぎたシワで二重か三重かわからなくなったまぶたをカッと見開き暗闇を見据え、ひと芝居。
「やあやあ、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ、我こそは、千両役者、酒田藤二郎なり!」
暗がりの中、顔のすぐ前に幕があった。精一杯の声音は無情にも幕に包まれ消えた。
「情ねぇ…。声が伸びやがらねぇ」
尻はしょりをし直し、股引をずり上げる。利き足をずいっと大きく引き、逆の足を力強く前へ出した。
「一世一代の跳びをご覧にいれます。酒田藤二郎、これにて跳び納めとあいなりまする」
往年の得意技、八艘跳びならぬ藤二郎跳び、上手から下手へ。この程度の舞台なら、調子のいいときなら十歩くらいでいけたものだったが、あれから相当の月日が流れた。
「はっ!」
後ろに引いた利き足を空中へ大きく踏み出す。その勢いで藤二郎は跳んだ。一歩、二歩、着地するたび膝がぶちぶちと音を立てた。三歩、四歩…往年の跳びに比べ高さも歩幅も半分も無い。五歩、六歩、飛べないガチョウを思わせる着地。七歩…八歩目は無かった。奈落へ落ちたのだ。観音様が引っ込んだその穴に。せり係は幕を引くのに忙しく、せりを元に戻さずそのままはけてしまったのだ。
暗がりの中、墨色の正方形の穴から舞台天井の吊り装置が見えた。
主役を演じたことない藤二郎には初めて見るせりからの景色だった。
「いててて…。ざまぁねぇやな。舞台の上で死ねりゃ役者冥利…。」
身体のあちこちが痛んだ。息を吸おうとすると背中に激痛が走った。
「ふぉっ…息が、息ができねぇ。舞台の上、上じゃありゃしねぇ。下ときてらぁ…」
床にこぼれた金銀の紙吹雪がちらちら、ちらちらと藤二郎の落ちた穴のふちからこぼれてきた。
「なんだ。綺麗じゃねぇか。雪か砂子か幻かってんだ。畜生め。これが、これがおいらの、役者藤二郎の最期でさぁ。観音様、観音様よぉ。何の因果でござんすかねぇ。あんまりじゃあござんせんかぁ」
藤二郎はおいおい泣いた。つい今しがた舞台の上でやった芝居以上に泣いた。あお向けに落ちた体は自分では動かせなかった。溢れる涙は複雑なシワを阿弥陀くじを辿るように伝い、口に届いた。
「うへぇ、油くせぇっ!」
暗い穴の底から低い低い笑い声が響いていた。
ハジメテノ/エフ
久しぶりに彼が帰ってきたので、早めの夕飯に寿司の出前をとった。
「お寿司、食べてね。あなた、好きだったでしょう」
彼は微笑んでうん、と頷く。けれども、寿司に伸ばしかけた手を止めて、もう、お盆か、と言って、食卓の上に置いた胡瓜の馬に目をやった。
「あなたに聞いていた通りに用意してみたの」
わたしが言うと、そうか、と彼が笑った。
湿気た風が部屋に入り込んで、わたしの髪だけを微かに揺らした。部屋の中は静かで、ただ、蝉のじわじわという鳴き声が漂っている。
「霊がその胡瓜の馬に乗って帰ってくるって、本当?」
割り箸を足に見立ててさした胡瓜を指差すと、彼は少しだけ首を傾げて、少なくとも、僕の田舎ではそう云われているよ、と答えた。
「あんまり馬には見えないけど」
わたしが呟くと、彼は声を立てずに笑った。
「ねえ、お寿司食べてね」
寿司桶の中身が一つも減っていない。遠くから帰ってきて、お腹が空いているだろうと思ったのに。
迎え火もしたんだね。彼は、寿司に手を伸ばさずに言う。
「玄関で焚いたのよ。煙が出て、火災報知機が作動するかと、ひやひやしたわ」
まだ少し、苦いような甘いような煙の匂いがしている。彼の田舎では白樺の皮を焼いて迎え火にするのだと聞いていたから、わざわざ取り寄せたのだ。この迎え火を頼りに、霊が帰ってくるのだそうだ。
「ここに、ご先祖様の霊も帰ってきたりしているのかしら」
尋ねると彼は、ご先祖様の霊は田舎に帰っているんじゃないかな、と答える。
それにしても、君に会うの、久しぶりだな。彼が言う。元気にしていた? 彼が笑いながら尋ねるので、まあまあね、とわたしは答えた。
「それより、お寿司食べないの?」
彼の好物の、蛸の表面が少し、乾いてきてしまっているように見える。
うん。彼が呟いた。僕も初めて知ったんだけど、どうやら、君の用意してくれた、決まった供え物以外は食べられないみたいなんだ。
「出前のお寿司は駄目なの」
うん。ごめんな。彼が困ったように笑う。
「わたし、知らなくて。ごめんなさい」
謝ると、彼は首を左右に振る。新盆だから、仕方がないよ。僕も君も、初めてなんだ。
表で鳴き始めたヒグラシの声が部屋に入り込んで、霧雨のように湿度を持ってわたしに降りかかる。
「こんなに早く、あなたの為に迎え火を焚くことになるとは思わなかったわ」
言いながら、蛸の寿司を一つつまんだ。彼の好物から食べてやろうと思った。わたしを置いていった罰だ。
ありがとう。と、彼が言った。彼は微笑んで、蛸の寿司を咀嚼するわたしを見つめている。
蛸を噛む度、水気のある甘味が口の中に広がる。蛸の、やっぱり少し乾いてしまった表面と、柔らかな歯ざわりが哀しかった。
「お寿司、食べてね。あなた、好きだったでしょう」
彼は微笑んでうん、と頷く。けれども、寿司に伸ばしかけた手を止めて、もう、お盆か、と言って、食卓の上に置いた胡瓜の馬に目をやった。
「あなたに聞いていた通りに用意してみたの」
わたしが言うと、そうか、と彼が笑った。
湿気た風が部屋に入り込んで、わたしの髪だけを微かに揺らした。部屋の中は静かで、ただ、蝉のじわじわという鳴き声が漂っている。
「霊がその胡瓜の馬に乗って帰ってくるって、本当?」
割り箸を足に見立ててさした胡瓜を指差すと、彼は少しだけ首を傾げて、少なくとも、僕の田舎ではそう云われているよ、と答えた。
「あんまり馬には見えないけど」
わたしが呟くと、彼は声を立てずに笑った。
「ねえ、お寿司食べてね」
寿司桶の中身が一つも減っていない。遠くから帰ってきて、お腹が空いているだろうと思ったのに。
迎え火もしたんだね。彼は、寿司に手を伸ばさずに言う。
「玄関で焚いたのよ。煙が出て、火災報知機が作動するかと、ひやひやしたわ」
まだ少し、苦いような甘いような煙の匂いがしている。彼の田舎では白樺の皮を焼いて迎え火にするのだと聞いていたから、わざわざ取り寄せたのだ。この迎え火を頼りに、霊が帰ってくるのだそうだ。
「ここに、ご先祖様の霊も帰ってきたりしているのかしら」
尋ねると彼は、ご先祖様の霊は田舎に帰っているんじゃないかな、と答える。
それにしても、君に会うの、久しぶりだな。彼が言う。元気にしていた? 彼が笑いながら尋ねるので、まあまあね、とわたしは答えた。
「それより、お寿司食べないの?」
彼の好物の、蛸の表面が少し、乾いてきてしまっているように見える。
うん。彼が呟いた。僕も初めて知ったんだけど、どうやら、君の用意してくれた、決まった供え物以外は食べられないみたいなんだ。
「出前のお寿司は駄目なの」
うん。ごめんな。彼が困ったように笑う。
「わたし、知らなくて。ごめんなさい」
謝ると、彼は首を左右に振る。新盆だから、仕方がないよ。僕も君も、初めてなんだ。
表で鳴き始めたヒグラシの声が部屋に入り込んで、霧雨のように湿度を持ってわたしに降りかかる。
「こんなに早く、あなたの為に迎え火を焚くことになるとは思わなかったわ」
言いながら、蛸の寿司を一つつまんだ。彼の好物から食べてやろうと思った。わたしを置いていった罰だ。
ありがとう。と、彼が言った。彼は微笑んで、蛸の寿司を咀嚼するわたしを見つめている。
蛸を噛む度、水気のある甘味が口の中に広がる。蛸の、やっぱり少し乾いてしまった表面と、柔らかな歯ざわりが哀しかった。





